2015年03月30日
寝台急行銀河②~九州人がなんで夜汽車にのらんと?~
実は寝台急行銀河には何度か乗っているはずなのだが、はじめて乗った時以外のことはあまり覚えていない。それだけよく乗っていたのだと思う。
確実に乗ったことを覚えているのが大学3回生の秋のことだ。当時立命館大学経営学部の学生だったのだが3回生になるとゼミがはじまる。私の所属していた澤邉ゼミでは、ゼミで一つの論文を書こうということになった。なぜか私がその取りまとめ役となってしまったのだが、これが大失敗。公認会計士試験受験者や税理士試験受験者があつまってしまったこのゼミでは誰も論文を書こうとしないのだ。結局私と下宿の近かった村上の2人だけで論文を書く羽目になってしまった。先生にしごかれながら。
秋になると先生から「インゼミに行って来い!」という指示を受けた。他の学部でもあるかどうかは知らないのだが全国の大学の経済・経営・商学部系の学生が集まり、共通の研究テーマとしているゼミ同士で討論をして理解を深めようというものだ。他大学の学生と交流ができるわけで、「君たち、いろんな学生たちと交流してきて知識を深めてきなよ。」と言う師匠のありがたい親心なわけだ。それが八王子の中央大学で開催されることになっていたのだ。遠いが仕方がない。村上と二人だけで参加の申し込みを行ったのだが、事務局から送られてきた討論相手の一覧表を見てびっくり。なんと同じ立命館大学の経営学部のゼミと討論することになっていた。
わざわざ八王子まで行って立命の学生と討論することが決まってモチベーションが一気に下がる。けど、仕方なく八王子に向かうために乗ったのが寝台急行銀河だったわけ。乗る前に九州は大分出身の村上が「俺、夜行列車に乗るのはじめて。」と言ったのだが、”私なら九州出身で京都の大学に行ってるんやったら帰省の度に寝台特急彗星で帰るのになあ”と思ったのを覚えている。
八王子のインゼミでは、お互いにテンションの上がらない立命のゼミ同士がかみ合わない議論を早々に終わらせた。中央大学のキャンパスの学食にステーキのスエヒロが入っているのを見つけてビビった記憶だけしかない。
でも、その後村上と二人で完成させたゼミ論文は、なぜか大学の父母教育後援会賞の優秀賞を頂き賞金まで頂いてしまった。
二人だけで山分けしたことはいうまでもない。

確実に乗ったことを覚えているのが大学3回生の秋のことだ。当時立命館大学経営学部の学生だったのだが3回生になるとゼミがはじまる。私の所属していた澤邉ゼミでは、ゼミで一つの論文を書こうということになった。なぜか私がその取りまとめ役となってしまったのだが、これが大失敗。公認会計士試験受験者や税理士試験受験者があつまってしまったこのゼミでは誰も論文を書こうとしないのだ。結局私と下宿の近かった村上の2人だけで論文を書く羽目になってしまった。先生にしごかれながら。
秋になると先生から「インゼミに行って来い!」という指示を受けた。他の学部でもあるかどうかは知らないのだが全国の大学の経済・経営・商学部系の学生が集まり、共通の研究テーマとしているゼミ同士で討論をして理解を深めようというものだ。他大学の学生と交流ができるわけで、「君たち、いろんな学生たちと交流してきて知識を深めてきなよ。」と言う師匠のありがたい親心なわけだ。それが八王子の中央大学で開催されることになっていたのだ。遠いが仕方がない。村上と二人だけで参加の申し込みを行ったのだが、事務局から送られてきた討論相手の一覧表を見てびっくり。なんと同じ立命館大学の経営学部のゼミと討論することになっていた。
わざわざ八王子まで行って立命の学生と討論することが決まってモチベーションが一気に下がる。けど、仕方なく八王子に向かうために乗ったのが寝台急行銀河だったわけ。乗る前に九州は大分出身の村上が「俺、夜行列車に乗るのはじめて。」と言ったのだが、”私なら九州出身で京都の大学に行ってるんやったら帰省の度に寝台特急彗星で帰るのになあ”と思ったのを覚えている。
八王子のインゼミでは、お互いにテンションの上がらない立命のゼミ同士がかみ合わない議論を早々に終わらせた。中央大学のキャンパスの学食にステーキのスエヒロが入っているのを見つけてビビった記憶だけしかない。
でも、その後村上と二人で完成させたゼミ論文は、なぜか大学の父母教育後援会賞の優秀賞を頂き賞金まで頂いてしまった。
二人だけで山分けしたことはいうまでもない。

2015年03月23日
寝台急行銀河①
初めてブルートレインに乗ったのは小学校5年生のとき。
この年1985年はつくばで科学万博が開かれることになり家族で見物に行くことになったのだが、電車好きの私のたっての希望が聞き入れられ夜行列車に乗って東京まで行くことになった。
乗った列車は東京大阪間を結ぶ寝台急行銀河。一か月前にこれに乗ると決まってからはテンションが上がりまくり。2段式の寝台なので梯子を使ってベッドに上がる練習をしたり、寝台の幅が70㎝しかないことを調べると、わざわざ家で寝る時も布団を70㎝の幅に折りたたんでその幅で果たして寝返りを打てるのかを試したり、わくわくしながら乗車する日に備えたものだ。
いよいよ乗車当日。深夜の京都駅1番線はいつも見慣れた駅とは違い、信州や北陸に向かう夜行列車が次々にやってきては発車するのでテンションは最高潮。その後電気機関車にひっぱられた寝台急行銀河の青い車体がホームに入線した時はカメラのシャッターを押しまくった。
車内に入ると、車両の片側に通路が設けられベットがずらりと並んだ寝台列車独特の光景を見て感無量。ここで一晩過ごすのね。子供は高いところが好きなので当然上段寝台にもぐりこみ時刻表を枕元に広げて準備完了。時計と時刻表を見ながら「今、××ら辺を走っている!」と確認しながら、ほぼ一睡もせず東京までをすごしたっけ。もっとも、枕がかわっただけでも寝られない母親は当然のことながらよく眠れなかったらしく非常に不評だったが、私の知ったことではない。
あれから30年。既に銀河も2008年に廃止されたから時の流れは速いものです。
この年1985年はつくばで科学万博が開かれることになり家族で見物に行くことになったのだが、電車好きの私のたっての希望が聞き入れられ夜行列車に乗って東京まで行くことになった。
乗った列車は東京大阪間を結ぶ寝台急行銀河。一か月前にこれに乗ると決まってからはテンションが上がりまくり。2段式の寝台なので梯子を使ってベッドに上がる練習をしたり、寝台の幅が70㎝しかないことを調べると、わざわざ家で寝る時も布団を70㎝の幅に折りたたんでその幅で果たして寝返りを打てるのかを試したり、わくわくしながら乗車する日に備えたものだ。
いよいよ乗車当日。深夜の京都駅1番線はいつも見慣れた駅とは違い、信州や北陸に向かう夜行列車が次々にやってきては発車するのでテンションは最高潮。その後電気機関車にひっぱられた寝台急行銀河の青い車体がホームに入線した時はカメラのシャッターを押しまくった。
車内に入ると、車両の片側に通路が設けられベットがずらりと並んだ寝台列車独特の光景を見て感無量。ここで一晩過ごすのね。子供は高いところが好きなので当然上段寝台にもぐりこみ時刻表を枕元に広げて準備完了。時計と時刻表を見ながら「今、××ら辺を走っている!」と確認しながら、ほぼ一睡もせず東京までをすごしたっけ。もっとも、枕がかわっただけでも寝られない母親は当然のことながらよく眠れなかったらしく非常に不評だったが、私の知ったことではない。
あれから30年。既に銀河も2008年に廃止されたから時の流れは速いものです。

2015年03月16日
さようならブルートレイン・・・
先週金曜日の3月14日、うちの事務所の個人のお客さんの確定申告書の作成を無事すべて終える。
いやいやそんなことが書きたいわけではなくて、上野から札幌へ行く寝台特急の「北斗星」が廃止された。これで日本から「ブルートレイン」がすべて廃止されたことになる。ほんと寂しい限りです。
金曜日の夜にテレビでニュースを見ていると世間一般でも話題になっているようで、撮鉄と呼ばれるマニアの人たちが駅に大勢押掛け写真を撮ったり、さようならと叫んでいる人たちのことを報道していた。私の子供時代には「電車が好き」と公言するのは一種の変態と見られていたので、思春期にはとても悩んだりしたもので、大勢のマニアがマスコミに報道されているのを見るとなんだか違和感があって仕方がないのだが。
思い出してみると今までたくさんのブルートレインに乗ってきた。思いつく限りでも、さくら(東京-長崎・佐世保間)、はやぶさ(東京-西鹿児島間)、なは(新大阪-西鹿児島間)、彗星(新大阪-都城間)、あかつき(京都-長崎・佐世保間)、日本海(大阪-青森間)、トワイライトエクスプレス(大阪-札幌間(正確にはブルーではないが車両形式的にOK))、北陸(上野-金沢間)に乗ったものだ。
おっと急行も含めると、銀河(東京-大阪間)、あおもり(大阪-青森間)、きりしま(大阪-西鹿児島間)も乗ったね。
さらに寝台専用列車じゃない列車も含めると、ちくま(大阪-長野間)、きたぐに(大阪-新潟間)、能登(上野-金沢間)、まりも(札幌-釧路)なんかも乗ったけど、これは定義上はブルトレとは呼ばない。
他にもつがる(上野-青森間)、八甲田(上野-青森)、なんかも乗ったがそもそも寝台車が連結されてないもんね。
こうして列車の名前を思い出すだけでも懐かしい気分になってくる。初めてブルトレに乗った時興奮しすぎて一睡もできなかったこと。せまい上段寝台の中で食べた駅弁の味。深夜に駅に停車した時カーテンを開けてみた薄暗い人気のない駅舎。一夜明けた朝にベッドに横になりながら見た有明海のどこまでも青い色。みかんをくれた向かいの寝台のおばあさん。終点で行きつけの定食屋を教えてくれた車掌さん。
と言うわけで、しばらくはブルートレイン話を書くつもり。

いやいやそんなことが書きたいわけではなくて、上野から札幌へ行く寝台特急の「北斗星」が廃止された。これで日本から「ブルートレイン」がすべて廃止されたことになる。ほんと寂しい限りです。
金曜日の夜にテレビでニュースを見ていると世間一般でも話題になっているようで、撮鉄と呼ばれるマニアの人たちが駅に大勢押掛け写真を撮ったり、さようならと叫んでいる人たちのことを報道していた。私の子供時代には「電車が好き」と公言するのは一種の変態と見られていたので、思春期にはとても悩んだりしたもので、大勢のマニアがマスコミに報道されているのを見るとなんだか違和感があって仕方がないのだが。
思い出してみると今までたくさんのブルートレインに乗ってきた。思いつく限りでも、さくら(東京-長崎・佐世保間)、はやぶさ(東京-西鹿児島間)、なは(新大阪-西鹿児島間)、彗星(新大阪-都城間)、あかつき(京都-長崎・佐世保間)、日本海(大阪-青森間)、トワイライトエクスプレス(大阪-札幌間(正確にはブルーではないが車両形式的にOK))、北陸(上野-金沢間)に乗ったものだ。
おっと急行も含めると、銀河(東京-大阪間)、あおもり(大阪-青森間)、きりしま(大阪-西鹿児島間)も乗ったね。
さらに寝台専用列車じゃない列車も含めると、ちくま(大阪-長野間)、きたぐに(大阪-新潟間)、能登(上野-金沢間)、まりも(札幌-釧路)なんかも乗ったけど、これは定義上はブルトレとは呼ばない。
他にもつがる(上野-青森間)、八甲田(上野-青森)、なんかも乗ったがそもそも寝台車が連結されてないもんね。
こうして列車の名前を思い出すだけでも懐かしい気分になってくる。初めてブルトレに乗った時興奮しすぎて一睡もできなかったこと。せまい上段寝台の中で食べた駅弁の味。深夜に駅に停車した時カーテンを開けてみた薄暗い人気のない駅舎。一夜明けた朝にベッドに横になりながら見た有明海のどこまでも青い色。みかんをくれた向かいの寝台のおばあさん。終点で行きつけの定食屋を教えてくれた車掌さん。
と言うわけで、しばらくはブルートレイン話を書くつもり。
2015年03月09日
鬼瓦って意外と・・・
個人のお客様の確定申告業務もそろそろ終盤。この時期にだけお会いするお客様も多い。先日、申告書に印鑑を頂くために訪問したおり、何の話からか鬼瓦を見せてもらうことになった。あの屋根の上にのってるやつのことである。
聴けば実家のお父様が鬼瓦職人だったとのことで、亡くなられた際に形見分けでいくつかの鬼瓦をもらったとのこと。今から屋根にのせるのも大変なので部屋のオブジェにしているらしい。
鬼瓦の由来は遠く古く、シリアのパルミラ宮殿の入り口ででメドゥーサを魔よけとして設置していた文化が、シルクロード経由で中国にもたらされ、その中国から仏教や仏教寺院の一つの様式として日本までもたらされたものらしい。
普段近くでまじまじと見るものでもないので改めて拝見してみると、デフォルメされた姿が漫画ちっくでミョーにかわいらしい。鍾馗様なのだが、これも作り手によっていろいろな味があるものです。
聴けば実家のお父様が鬼瓦職人だったとのことで、亡くなられた際に形見分けでいくつかの鬼瓦をもらったとのこと。今から屋根にのせるのも大変なので部屋のオブジェにしているらしい。
鬼瓦の由来は遠く古く、シリアのパルミラ宮殿の入り口ででメドゥーサを魔よけとして設置していた文化が、シルクロード経由で中国にもたらされ、その中国から仏教や仏教寺院の一つの様式として日本までもたらされたものらしい。
普段近くでまじまじと見るものでもないので改めて拝見してみると、デフォルメされた姿が漫画ちっくでミョーにかわいらしい。鍾馗様なのだが、これも作り手によっていろいろな味があるものです。
Posted by すずとも at
08:30
│Comments(0)
2015年03月02日
先代の鮒ずし
先日、顧問先さまを訪問した時のことだ。いつもの月次監査を終わらせ、社長に経営状況の報告を終えたその帰りがけに先代社長の奥さんに呼び止められた。
「あんた、鮒ずし好きか?お父さんが漬けた鮒ずしがあんねんけど持って帰り。」
もちろんこの顧問先さまは鮒ずしやさんではなく、滋賀県内では今でも家庭で鮒ずしを漬ける風習が残っており、その家庭用の1本をおすそ分けしてくれるらしい。この顧問先さまとは先代社長の時代からお付き合いさせていただいており、“お父さん”とは先代社長のことで、現社長の実のお父さんでもある。実は先代社長は2年程前に他界されている。口数の少ない実直な職人気質の方で、私もそれほど多くお話をさせていただいたわけではないのだが、夫婦二人三脚で会社を経営され盤石の基盤を築いてから息子さんに会社経営を譲られたのだ。
この頂いた鮒ずしは先代社長が亡くなるほんの数か月前に自らつけられたものらしく、旨みも最高の2年物になる。家に帰ってさっそく切らせてもらうと香りも素晴らしく噛みしめるとしみじみと旨かった。鮒ずしはその作る際の下処理の段階で手を抜くととても臭くなってしまうのだが、この鮒ずしは全く臭みもなかった。職人気質の先代社長のことだから、きっと丁寧に丁寧に下処理をされていたに違いない。そんな人柄がにじみ出た味だった。
2年と言う時の流れは長いようで短いものですね。

「あんた、鮒ずし好きか?お父さんが漬けた鮒ずしがあんねんけど持って帰り。」
もちろんこの顧問先さまは鮒ずしやさんではなく、滋賀県内では今でも家庭で鮒ずしを漬ける風習が残っており、その家庭用の1本をおすそ分けしてくれるらしい。この顧問先さまとは先代社長の時代からお付き合いさせていただいており、“お父さん”とは先代社長のことで、現社長の実のお父さんでもある。実は先代社長は2年程前に他界されている。口数の少ない実直な職人気質の方で、私もそれほど多くお話をさせていただいたわけではないのだが、夫婦二人三脚で会社を経営され盤石の基盤を築いてから息子さんに会社経営を譲られたのだ。
この頂いた鮒ずしは先代社長が亡くなるほんの数か月前に自らつけられたものらしく、旨みも最高の2年物になる。家に帰ってさっそく切らせてもらうと香りも素晴らしく噛みしめるとしみじみと旨かった。鮒ずしはその作る際の下処理の段階で手を抜くととても臭くなってしまうのだが、この鮒ずしは全く臭みもなかった。職人気質の先代社長のことだから、きっと丁寧に丁寧に下処理をされていたに違いない。そんな人柄がにじみ出た味だった。
2年と言う時の流れは長いようで短いものですね。